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大林素子が語る全日本ユニフォーム「ブルマに誇りを持っていました」

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スポーツ

【NEWSポストセブンプレミアム記事】

いよいよ開幕する東京五輪。女子バレー日本代表選手12人が6月30日に発表され、メダルを目指す。彼女たちが身にまとって戦いに挑む代表ユニフォームは、1964年の前回東京五輪以降、何度もデザインが変更されてきた。3回の五輪出場を経験した全日本のエースアタッカーが、その歴史を振り返る。

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「私ほどいろんなタイプのユニフォームを経験した女子バレーボール選手もいないでしょう」

そう笑うのはサウスポーの元全日本エースアタッカーである大林素子さん(54)だ。初めて選出されたのは1985年で、八王子実践高校3年生の時。当時のユニフォームは長袖のシャツにブルマというオールドスタイルだった。女子バレーボールが正式種目となり、“東洋の魔女”が金メダルを獲得した1964年東京五輪に近いユニフォームだ。

「東洋の魔女の時は、いわゆる“ちょうちん(提灯)ブルマ”と呼ばれるダボッとしたブルマですよね。一方、その時の決勝の相手であるソ連は、もう少しフィットするタイプのブルマを採用していて、日本を含めその後のユニフォームの主流となりました。結局、全日本女子は1996年のアトランタ五輪までブルマを履くことになります」

五輪は1988年のソウル大会、1992年のバルセロナ、そしてアトランタを経験した。ユニフォームは戦闘服──。だからこそ、着こなしには人一倍、こだわった。

「私たちの時代は、ブルマが嫌だとか、恥ずかしいとかは1ミリもなかったかな。同時に、コート上は夢を叶える場所だから、自分が自分らしくあるために、“魅せる”ことも意識しました。

特に(1995年に)イタリアのセリエAを経験してからは、ブルマに対しても強いこだわりを持つようになりました。どうせならかっこよく見られたい。ブルマをハイレグにカッティングして、着ていましたね。陸上のフローレンス・ジョイナーさんがハイレグのユニフォームで世界の注目を集めていた。私も憧れました」

上着をブルマの中に“イン”するのか、“アウト”にするかは時代によって異なる。

「現在はアウトが主流です。全日本では1985年のW杯の時まではアウトになっていたと思うんですけど、ジャンプした時にお腹が見えてしまうことが教育委員会で問題になったらしく、また、単純に見た目にもだらしないとのことで、インになったようです。

私は髪型もこだわっていました。『アタックNo.1』の(主人公である)鮎原こずえちゃんに私はなりたかった。だから誰よりも高い位置でポニーテールを結び、ゴム紐もユニフォームの色にあわせて白や赤を選んでいました。ただ、実力も無いのに格好だけと思われたくなかったので、トップ選手になってから意識したことですが」